大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

水戸地方裁判所竜ケ崎支部 平成12年(ヨ)27号 決定

債権者

甲野太郎

右代理人弁護士

古川景一

債務者

ネスレ日本株式会社

右代表者代表取締役

ウォルフガング・エイチ・ライヘンバーガー

右代理人弁護士

中山慈夫

男澤才樹

中島英樹

中町誠

主文

一  債務者は,債権者に対し,平成12年8月から平成13年7月まで毎月25日限り月額25万円を仮に支払え。

二  債権者のその余の申立てを却下する。

三  申立費用は債務者の負担とする

理由

第一申立ての趣旨

一  第一審判決言渡までの間,債権者が債務者との間の労働契約上の従業員たる地位(茨城県稲敷郡〈以下略〉所在の霞ヶ浦工場勤務)にあることを仮に定める。

二  債務者は,債権者に対し,16万3060円及び平成12年6月から第一審判決言渡までの間,毎月25日限り月額40万7461円の割合による金員を仮に支払え。

三  第一審判決言渡までの間,債務者は,債権者に対し,平成12年6月から毎年6月及び12月の各10日限り,各回120万7730円の割合による金員を仮に支払え。

第二事案の概要

一  事案の骨子

本件は,債務者の従業員であった債権者が,合意退職の不存在,無効,取消しを主張して,第一審判決言渡までの間,労働契約上の従業員たる地位にあることを仮に定めること並びに賃金として平均賃金月額40万7461円の割合で計算した平成12年5月18日から同月末日までの未払賃金16万3060円及び平成12年6月1日から第一審判決言渡までの間,毎月25日限り右平均賃金月額40万7461円の割合による金員,賞与として平成12年6月から第一審判決言渡までの間,毎年6月及び12月の各10日限り,各回平成11年6月期及び12月期支給額と同額の120万7730円の仮払を求めた事件である。

二  前提事実(争いがない。)

1  債務者は,世界最大の食品メーカーであるネスレS,A(スイス国法人)の日本法人である。

2  債権者は,平成12年5月17日当時債務者の霞ヶ浦工場(茨城県稲敷郡桜川村神宮寺迎山1751番地所在。以下「霞ヶ浦工場」という。)に勤務する従業員であった者である。なお,債権者は,昭和40年4月に不二家乳業株式会社に入社し,北海道沙流郡門別町所在の同社日高工場に勤務していたが,同社が債務者(当時の商号は「ネッスル日本株式会社」であった。)に買収されて日高乳業株式会社と商号変更し債務者の子会社となった際,債務者に直接雇用され,日高乳業株式会社に出向していたところ,昭和60年に日高工場が閉鎖されたことに伴い同年10月に霞ヶ浦工場に異動し,以後霞ヶ浦工場に勤務し,平成12年5月17日当時は生産企画課配送センターに所属して配送センターの入出庫業務に従事していた。

3  債権者は,平成12年5月17日に霞ヶ浦工場長播摩光俊(以下「播摩工場長」という。)宛てに「この度,一身上の都合により平成12年5月17付(ママ)で退職致したくお願いします。」と記載した退職願(以下「本件退職願」という。)を作成して提出した。これに対して,播摩工場長は,同日,債権者に対し,本件退職願を受理・承認したので,債権者は同日付けをもって退職となる旨を記載した通知書(以下「本件通知書」という。)を作成して交付した。

4  債務者は,債権者が平成12年5月17日に債務者を合意退職をしたと主張して,債権者に対し,翌日以降の労働契約上の地位を否定して賃金等を支払わないでいる。

5  債権者は,債務者から,平成12年5月17日当時,平均賃金月額40万7461円を毎月25日に支払を受けており,平成12年5月分の賃金としては同月17日までの分として24万4401円の支払を受けた。また,賞与として平成11年6月期及び12月期に各120万7730円の支払を受けた。

6  債務者は,平成12年5月17日当時,昭和60年7月に日高工場内で事務室が損壊された器物損壊事件(以下「日高事件」という。)及び平成5年10月に霞ヶ浦工場内で製造課長代理谷口裕(以下「谷口製造課長代理」という。)が暴行を受けて負傷したと主張する事件(以下「谷口暴力事件」という。)に債権者が実行犯として関わったと主張しており,これに対し,債権者は,いずれの事件にも関与していないと主張していた。

三  当事者の主張の要旨

1  債権者

(一) 合意解約の不成立

(1) 霞ヶ浦工場長(播摩工場長)には,霞ヶ浦工場勤務の労働者からの退職願を受理して労働契約合意解約の申込みに対する承諾の意思表示をする権限はない。債権者は,債務者が債権者からの右合意退職申込みに対する承諾の意思表示をするよりも前である平成12年5月18日午後1時に債務者に対し右合意解約の申込みを撤回する意思表示をした。

(2) 債権者は,債権者の要望事項(以下,次の要望事項を「本件要望事項」という。)である〈1〉退職金は就業規則のA表に基づいて出来る限り早く支払う,〈2〉平成12年夏季賞与相当分は支給する方向で検討する,〈3〉大入袋,新基本給の差額相当分の支給を検討する,〈4〉20日分の有給休暇の買上げを検討する,との4項日を債務者が検討し実現することを停止条件として右(1)の合意解約の申込みをした。しかし,債務者は右要望事項を容れて実現することとした旨の通知を債権者にしておらず,右停止条件は成就していない。

(二) 錯誤無効

債権者は,平成12年5月17日に播摩工場長,霞ヶ浦工場人事総務課長和田敏樹(以下「和田人事総務課長」という。),同製造課長生駒芳行(以下「生駒製造課長」という。)から,債務者が日高事件及び谷口暴力事件で債権者を懲戒解雇することに決定したなどと言われたため,仮に懲戒解雇することに決定したと言われたのでなくとも,債権者の人生を左右するような重大な処分が検討されているなどと言われたため,実際には懲戒解雇の処分を受けるべき理由がないにも係わらず,債務者が債権者に対し懲戒解雇処分に及ぶことが確実であり,これを避けるためには自己都合退職以外に方法がなく,退職願を提出しなければ懲戒解雇処分にされると自己の法的地位について誤信し,本件退職願を提出して労働契約合意解約の申込みをした際に,債務者に対し,右懲戒解雇処分を避けるために右労働契約合意解約の申込みをする旨を明示的に表示したから,右意思表示には法律行為の要素に錯誤があり,無効である。

(三) 強迫を原因とする取消し

債権者が本件退職願を提出して労働契約合意解約の申込みをしたのは,右(二)のとおり,播摩工場長ら3名が債権者に対し既に相当期間が経過して労働契約上の信義則により懲戒処分権を行使し得ない日高事件及び谷口暴力事件で債権者を懲戒解雇することに決定したなどと言って,債権者を畏怖させたからである。債権者は,平成12年5月18日,債務者に対し右退職の意思表示を取り消す意思表示をした。

(四) 保全の必要性

債権者には,申立ての趣旨すべてについて保全する必要性がある。

2  債務者

(一) 合意解約の不成立について

債権者と債務者との労働契約は,債権者が平成12年5月17日に債務者に対し本件退職願を提出して労働契約の合意解約を申し込み,その承諾権限を有する霞ヶ浦工場長(播摩工場長)が承諾して本件通知書を債権者に交付した時点で合意解約により終了した。

(二) 錯誤無効について

播摩工場長,和田人事総務課長,生駒製造課長は,平成12年5月17日,債権者に対し,債務者が谷口暴力事件で債権者を処分することを検討中であると述べたにとどまり,日高事件を理由に処分を検討していると述べたことはなく,また,懲戒解雇することに決定したとも述べていない。また,債権者は,谷口暴力事件に実行犯として関わったのであるから,債務者から処分を受ける十分な理由があった。債権者は,右のとおり処分が検討されていることを聞いて,自分の行動を振り返り,処分を受けるべき十分な理由があることを認識した上,処分を受けることと自己都合退職することとの得失を比較し,自己都合退職の方が有利であると判断して本件退職願を提出したものであり,自己の法的地位を誤信したということはない。

(三) 強迫を原因とする取消しについて

右(二)のとおり播摩工場長ら3名は,債務者が谷口暴力事件で債権者を処分することを検討中であると述べたにとどまり,しかも債権者は谷口暴力事件に実行犯として関わり債務者から処分を受ける十分な理由があったのであるから,右のように述べたことが債権者を畏怖させるものではない。そもそも,債権者は,本件退職願を提出した際,冷静で,播摩工場長ら3名の話の内容により畏怖していた事実はない。

(四) 保全の必要性

債権者には,申立ての趣旨すべてについて保全する必要性がない。

四  争点

1  労働契約合意解約の成否

2  債権者の錯誤の有無

3  債務者の強迫の有無

4  保全の必要性の有無及び程度

第三当裁判所の判断

一  争点1(労働契約合意解約の成否)について

本件疎明資料及び審尋の結果によれば,霞ヶ浦工場長(播摩工場長)には,霞ヶ浦工場勤務の労働者からの退職願を受理して労働契約合意解約の申込みに対する承諾の意思表示をする権限があると一応認められる。そうすると,前提事実3によれば,特段の事情のない限り,債権者と債務者との労働契約は,債権者が平成12年5月17日に債務者に対し本件退職願を提出して労働契約の合意解約を申し込み,その承諾権限を有する霞ヶ浦工場長(播摩工場長)が承諾して本件通知書を債権者に交付した時点で合意解約により終了したことになる。

なお,債権者は,霞ヶ浦工場長は霞ヶ浦工場勤務の労働者との労働契約の合意解約に伴う退職金の加算,賞与の支給,未消化有給休暇の買上げ等の債権債務の清算に関する決定権限を有しないから,右承諾の意思表示をする権限もない旨主張するが,前者の権限と後者の権限とは別個のものであって,その一方のみを有することがあり得ないとか不合理とはいえないから,右主張は採用しない。

二  争点3(債務者の強迫の有無)について

1  前提事実に本件疎明資料及び審尋の結果を併せると,次の事実が一応認められる。

(一) 播摩工場長は,平成12年5月17日午前10時頃,債務者本社から,債務者が谷口暴力事件で債権者を処分することを検討中であるなどとする連絡を受けた。

(二) 播摩工場長は,同日午後2時10分頃,会議室において,和田人事総務課長,生駒製造課長の同席のもとに,求めに応じて来室した債権者に対し,次のような話し(ママ)た。

〈1〉 これから話す内容は債権者にとって大切な事であるので,最後まで冷静に聞いて欲しい。だいたい15分くらいかかると思う。最後に債権者の考えを聞くので,それまで黙って聞いて欲しい。

〈2〉 債務者本社は,谷口暴力事件に関し,債権者の処分について検討中であり,近々決定されると聞いている。債権者にも言い分はあると思うが,債務者として,暴力事件が存在した事実は変えられず,不問に付すわけにもいかない。不起訴になったとはいっても無実ではないと考えている。まだ処分は決定されていないが,処分が決定されれば播摩工場長にはどうすることもできないし,債権者の場合,日高事件等もあるため,処分は避けられないかもしれない。

〈3〉 そこで,個人的なアドバイスとして,債権者が自分自身で考えて行動してみてはどうか。処分されるのと自分自身で考えて行動するのとでは大きな違いがでると思う。

〈4〉 債務者は一度正しいと決めたことは最後までやり通す会社であり,途中で妥協することはしない。処分が出て,債権者に不服があった場合,長い争いになるかもしれないが,それはお互いに決してプラスではないので,できれば避けたいと考えている。

〈5〉 今であれば播摩工場長個人としての対応も可能であるが,処分が決定された後では何もできないので,これを一つのチャンスと考えて自発的に行動して欲しい。

(三) これに対し,債権者は,谷口暴力事件や日高事件はいずれも不起訴になっているのに処分するのか,日高事件については現場に居合わせただけで何もしていないし,谷口暴力事件については谷口製造課長代理の襟首をつかんだだけで殴ったりしてはいないなどと弁明した。これを受けて,和田人事総務課長は,債権者が谷口製造課長代理に暴力を振るったことは事実であり実際に谷口製造課長代理は怪我をしている,谷口暴力事件についてこれまで債権者に対する処分が留保されてきたのは,警察から警察の処分が決まるまで債務者の処分を待って欲しいと頼まれたり,不起訴処分まで6年かかったことなどの事情によると説明した後,不起訴になったからといって無実という訳にはいかないと述べ,播摩工場長は,就業規則に懲戒規定があるが処分がそのどれになるか,懲戒解雇なのかは分からない,これを一つのチャンスと考えて欲しいと話した。債権者は,退職するのはやりきれないが,俺はもう年だし裁判をやる気もない,会社はうまいことを考えたなどと述べた。その後,債権者の妻の話が話題になるなど雑談をした後,生駒製造課長が,どんな処分が出るかわからないが,家族の事を第一に考えなければならないと思うと述べたところ,債権者は,今まで家族だけのことを考えてやってきたと述べた後,自己都合退職の場合の退職金額,賞与や大入り袋が支給されるか否か等退職した場合に受けられる給付についての質問や要望をしたほか,未消化の有給休暇20日分の買上げ,健康保険の取扱いについての要望を述べた。これに対して,播摩工場長が本社に賞与支給の可否を確認したところ自主的に円満退職する場合には支給してもよいとの回答を得たためこれを債権者に伝え,大入り袋等の支給もされるとの見通しを述べたりし,その後,生駒製造課長が本件要望事項をまとめて債権者に確認し,債務者(本社)が本件要望事項を叶えるのは確実であるとの見通しを述べた。その後,債権者は,午後4時前後に,播摩工場長宛てに「この度,一身上の都合により平成12年5月17付(ママ)で退職致したくお願いします。」と記載した本件退職願を作成して提出した。間もなく,播摩工場長は,本件退職願を受理・承認したので,債権者は平成12年5月17日付けをもって退職となる旨を記載した本件通知書を作成し,債権者に交付した。

(四) 平成5年10月26日に谷口製造課長代理が霞ヶ浦工場内で暴行を受けて負傷する事件が起きたが,谷口製造課長代理はその実行犯の1人が債権者であると指摘し,警察に届け出たりしたほか,平成8年3月15日,水戸地方検察庁検察官に債権者ほか2名を実行犯と特定して傷害罪で告訴したが,同検察官は平成11年12月28日債権者らについて公訴を提起しない処分をした。その間,債務者は,平成7年7月31日に郵送した同日付け通告書をもって,債権者に対し,債権者が平成5年10月26日に谷口製造課長代理に対し暴行を振るった上傷害を負わせ,また,同年10月29日及び平成6年7月20日に職場を離脱した上谷口製造課長代理に対し暴言を吐いたり退去を求められた事務所内に居座り続けたりして債務者の業務を妨害したとし,右行為・行動について懲戒処分等を含む責任追及の権利を留保する旨通告した。

(五) 債権者が所属していた労働組合ないし労働組合員と債務者との間には,昭和58年以降現在に至るまで労働委員会や裁判所に多数の事件が係属し,最高裁判所の判決で確定するまで数年にわたり争われたものも少なくない。なお,債権者は,長年右労働組合に加入するなどしてその間右労働組合支部執行委員長を務めるなど役員歴も長く,右係争について詳しい。

2  以上の事実によれば,播摩工場長らが債務者の職制として,会議室に1人呼び出した債権者に対し,債務者が近く谷口暴力事件を理由として債権者について懲戒解雇を含む懲戒処分に及ぶことが確実であることを予告した上で,債権者が右処分に不服であれば債務者は妥協しないため長く裁判で争うことが必至であるから,この事態を避けるためには債務者が処分をする前に自発的に行動することが賢明であるとして暗に早期に自己都合退職することを強く迫ったため,債権者は,債務者から近く懲戒解雇される蓋然性が高く,懲戒解雇された場合に裁判で争うことはこれまでの債務者の対応や姿勢から妥協のない長期間の争いとなるだろうが,これは自身の年齢や家族状況に照らして負担が大きいと畏怖して心理的に追い込まれた状態となり,この事態を避けるためには即時に自己都合退職に応ぜざるを得ないとして本件退職願を作成し労働契約合意解約の申込みをしたものと一応認めることができる。そうすると,債権者の右申込みは,特段の事情のない限り,播摩工場長らの強迫によるものとして取り消し得るものというべきである。

これに対し,債務者は,債権者は谷口暴力事件に実行犯として関わったのであるから,債務者から処分を受ける十分な理由があったと右特段の事情が存在する旨主張する。しかしながら,谷口暴力事件は,播摩工場長らがこれを理由として債権者に懲戒処分を予告した平成12年5月17日当時において,既に事件発生後6年8箇月以上を経過し,その間債権者が一貫して実行関与を否認し続けていてその立証も困難と考えられる状況にあったと推認される上,不起訴処分となってからも6箇月以上経過しているのであって,そのような時期及び状況において谷口暴力事件を理由として懲戒処分をすることは労働契約上の信義則に反するというほかないから,谷口暴力事件をもって右特段の事情があるということはできない。

3  以上によれば,債権者が平成12年5月17日に債務者に対してした労働契約合意解約申込みの意思表示は,債権者が同月18日債務者に対してこれを取り消す意思表示をしたことにより取り消されたものと一応認められる。

三  保全の必要性について

1  従業員たる地位の保全について

債権者は,債務者との間の労働契約上の従業員たる地位にあることを仮に定める旨のいわゆる任意の履行に期待する仮処分を求めるところ,後記2のとおり賃金の仮払を命ずるほかにこのような仮処分を発すべき保全の必要性を認めるに足りる疎明がない。

2  賃金等の仮払について

(一) 前提事実に本件疎明資料及び審尋の結果を併せると,次の事実が一応認められる。

(1) 債権者は,妻花子との間に長男一郎20歳,二男二郎17歳,長女月子14歳があり,肩書住所の賃借住宅に同居して生活している。なお,右住宅の賃料は月額5万7300円である。

(2) 債権者は,日高工場勤務当時購入して居住していた北海道沙流郡門別町所在の土地建物を所有し,これを賃貸して月額5万8000円の賃料収入を得ているが,他方で右土地建物購入に係るローン,固定資産税等の支払も合計月額約5万円ある。

(3) 債権者及び妻花子名義の預貯金は合計約400万円である。

(4) 妻花子は,清掃作業員として勤務して月額約13万5000円の,長男一郎はアルバイトをして月額約17万円の各給与収入お(ママ)り,二男二郎は公立高校2年生,長女月子は公立中学校3年生である。なお,一郎は自動車維持費等に月額約4万円を支出するなどしている。

(5) 債権者は,平成12年5月18日以降,成田公共職業安定所長との間で,本件仮処分事件に係る本案事件の判決が確定したり,本件仮処分事件の決定により解雇時に遡及して賃金が支払われたりした場合などにはその旨を成田公共職業安定所に通知し既支給の給付金全額を返還する旨の合意をした上で,雇用保険法に基づく失業給付金日額8000円の給付を受けている。

(6) 債権者とその家族は,右(1)ないし(5)に記載するほかは,格別の資産,収入,負債はなく,当面の生活は右(3)の預貯金を取り崩したり,右(4)の花子の収入,(5)の失業給付金などにより維持している。

(二) 以上によれば,債権者は,主に債務者から支払を受ける賃金によって,その家族の生計を維持してきたのであり,その支払がされないことにより著しい損害を被ることが一応認められるから,債権者には賃金仮払の必要性があるということができる。もっとも,債権者は,当面の生活は右(3)の預貯金を取り崩したり,右(4)の花子の収入などにより維持している上,緊急に多額の出費を要する事情はうかがわれないから,平成12年7月末日までの過去の賃金分については仮払の必要性がないというべきである。また,仮払の期間については,仮処分という性格等を考慮すると,平成12年8月1日から向後1年間に限りこれを認めるのが相当であり,その間の仮払額等については,家族の状況と収入額,預貯金の存在のほか,疎明資料により一応認められる従前の支出状況や生活水準等を総合考慮すると,月額賃金のうち25万円の限度で毎月末日限り支払うことを命ずる限度で認めるのが相当であるが,その余の賃金や賞与についてはその仮払の必要性を認めるに足りる疎明がないというべきである。

これに対し,債務者は,債権者が,〈1〉妻名義のものと合わせて合計約400万円の預貯金があること,〈2〉北海道沙流郡門別町に試算額約1000万円の土地建物を所有すること,〈3〉債務者から退職金約1883万円を支払う旨の通知を受けていること,〈4〉雇用保険法に基づく失業給付金日額8000円の給付を受けていること,〈5〉人事院調査による平成11年4月における5人家族の標準生計費が月額27万1590円であることを指摘して,債権者には賃金仮払をする保全の必要性がない旨主張する。しかし,右〈1〉については,予測し難い不時の出費を生ずることもあり得ることを考慮すると,推認される従前の生活水準(格別裕福なものとはいえない。)を維持するために右程度の預貯金を取り崩すべきことを余儀なくさせることは社会的及び公平の見地に照らして相当ではないというべきである。右〈2〉については,これを当座の生計を維持するために利用することが容易かつ相当であることを一応認めるに足りる疎明がない。また,〈3〉については,債権者が本件仮処分事件において債務者を退職したことを争っているのであるから,債権者に退職金の資産があるとか,これを受領して生計の維持をすべきであるとはいえず,右保全の必要性を検討するにつき考慮することはできない。そして,右〈4〉についても,債権者は債務者を退職したことを争っているところ,雇用保険法に基づく失業給付の受給が本件仮処分事件に係る本案事件の判決や本件仮処分事件の決定において債権者が労働契約を合意解約したなどの理由で退職したと判断されて敗訴ないし却下された場合に確定的に受給する性格のもので,それより前においては暫定的仮定的に受給しているにすぎず,現に債権者は本案事件の判決が確定したり,本件仮処分事件の決定により解雇時に遡及して賃金が支払われたりした場合などにはその旨を成田公共職業安定所に通知し既支給の給付金全額を返還する旨の合意をしていることを考慮すると,右保全の必要性を検討するにつき考慮することは相当でないというべきである。さらに,右〈5〉については,生計費は家族の人数のほか,その年齢構成や状況により大きく異なる上,右保全の必要性を検討するには従前の具体的な支出状況や生活水準についても考慮すべきであるから,標準生計費をもってただちに右保全の必要性を判断することは相当ではない。そうすると,債務者の右主張は理由がない。

第四結論

よって,本件仮処分命令申立ては主文1項の限度で理由があるから,事案に照らして担保を立てさせないでこれを認容することとし,その余は失当乏して却下し,申立費用の負担につき,民事保全法7条,民訴法61条,64条ただし書に従い,主文のとおり決定する。

(裁判官 納谷肇)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例